2025年講話と夕食の会 (かながわ県民センター)

 
 12月6日(土)午後1時過ぎ、かながわ県民センターにおいて、信徒部主催年末恒例の講話と夕食の会が開催された。

 


 受付が1時、開会は1時20分の予定であったが、申込参加者が全員揃ったので、1時10分過ぎに繰り上げて開会行事を始めた。山口信徒部長のご祈念と短い挨拶に続いて、信徒4人の方の「私の信心」と題する発表が始まった。



●一番バッターは清水一則さん(神奈川) 昭和21年生まれ、79歳。

 

生まれは徳島県、実家は農家で、父は大工仕事もしていた。父は金光教の信心をしていたが、兄弟が5人居て、父親が参拝する時、私だけが父についてお参りしていた。当時、朝昼晩と1日に3本しかバスがなく、参拝は一日がかりだったが、よく信心を仕込んでくれたと父に感謝している。

 昭和39年3月、就職のために横浜に来た。初めは仕事を覚えるのに必死で、金光教のマークのある建物があることを知って、教会があるなあと思っていたが、4年目になって初めて参拝した。福田源三郎先生がいらして、”よう来たなあ”と言って下さった。2回ほどお目にかかったが、その後6月に亡くなられ、みち先生、俊雄先生、光一先生とお世話になっている。

 朝5時半に起きて、すぐ参拝、お掃除をしたりした。当時日参されていた重鎮の方々に”若いのに、よくお参りされて----”と褒めて頂けるのがうれしかった。

 

 27歳だったと思うが、会社の友人たちと甲府へ旅行したことがある。電車で私の向かい側の席に、お母さんと小学校低学年くらいの男の子が座った。その子が”おなかが痛い”と泣いている。なかなか泣き止まないので、思い切って声をかけてみた。”私、お守り代りに、御神米というものを持っているのですが、頂いてみますか?”。

  お母さんがうなづいてくれたので、”生米なので、お母さんがよくカミカミしてから、あげて下さい”と手渡した。で、それを子供が口にしたら、にっこりして、”治った”と言ったのには、こちらがびっくりした。今まで泣いていたのがウソのように笑顔になって、神様の働きはすごいなあと驚き、感動した。

 今年のお正月、金光新聞に出ていた金光浩道先生のお話、子供が元気がない時、”まず御神米を頂いて”と言ったら、”うん”と素直に返事をし、有難く頂かれるという話だったが、御神米を頂くには、頂く心構えが必要で、”ちょっと調子悪いから、御神米でも”と、御神米を薬代りに使うような頂き方では、おかげは頂けない。どうでも御神米で治して頂こうと願って、有難く頂く心が大事なのだと思う。

 神様には体ごとぶつかるようでありたい。手と足を使って教会に行く、体を使って御用をさせて頂く、先生のお話を聴いて疑問があれば質問してぶつかっていく。相撲で言えば、ぶつかり稽古のような信心をしたい。ぶつかると痛いが、痛いということで信心がわかっていくのではないか。

 死ぬときにお金は持っていけないが、神徳は持っていける。子孫に残すこともできる。神徳を積めるような信心をしたいと願っている。



●続いて原田伸一さん(丸子) 昭和22年生まれの78歳。
お話に「親からの信心を頂いて」という副題をつけておられる。

 「小さい頃、2歳下の弟も私も体が弱かった。医者の往診を受け、当時高価だったペニシリンを注射してもらうということもよくあった。

 近所の方から”病気を治してくれる神様がいるよ”と聞いて、藁にもすがる思いで、母がお参りしたが、それが金光教丸子教会の横山敏三先生との出会いだった。


 母は日参して、小学校に入るころには、私も弟もすっかり元気になり、4歳上の姉共々、今も元気におかげ頂いている。その後、父も御用をしたりして、家族揃ってお参りしていた。中学生になったころは一人でお参りしていたが、敏三先生は”天地の道理”を熱心に説いておられた。”自然の道理に合わない生き方は、神様の御心に叶わない、天地の道理に沿った生き方をしなさい”と。


 大学生の頃、自転車旅行をした。9日間かけて、松尾芭蕉の奥の細道の跡をたどろうと思い、水戸街道を仙台へ向かった。芭蕉は日光街道を歩いたのだが、海岸沿いの道のほうが、起伏が少なくて自転車には楽だろうと思ったので。リヤカーで野菜を売り歩くおばあさんからトマトを買って食べ、そのおいしさに感動し、これこそ天地の恵みだと思ったり、雨に遭ったが、その後の虹を見ながら、雨も虹も天地の恵みだと解釈した。平泉まで行き、毛越寺などを観て、帰ってきた。いろいろな面で、成長できた旅行だと思っている。

 結婚する時、敏三先生から「結婚するということは、問題が起きるということですよ」と教えて頂いたが、男女二人の子供に恵まれ、順調に成長していた。平成9年に妻が体調を崩した。診察を受けると卵巣がん。私が商品開発の仕事に携わり、残業など当り前の日々を送っていたが、妻にはストレスになっていたのだろうかと反省した。

 その後仕事が変わったこともあって、妻の看病に時間を割くことが出来るようになった。手術の後、抗がん剤治療を受けたりいろいろあったが、あれから20年、妻は元気に町内会の仕事を手伝ったり、趣味のことをやったりして、充実した日々を過ごしているように見える。

 神様に見守られての人生であり、現在につながっているのだと感謝している。妻からはよく”神様からお借りしている体ですよ、大切にして下さい”と言われるが、これからも”おかげは和賀心にある”と心に刻んで、体のことも考えながら、無理せず生活して行きたいと願っている」



●続いて、山田光治さん(相模原) 昭和25年生まれの75歳。

 「お話の機会を頂き、素敵なポスターまで作って頂いて感謝している。私は九州糸島郡の出身で、両親は甘木教会で御神縁を頂いて、熱心に信心していた。私は双子で生まれたが、体が弱く、命の危険があったところを助けて頂いた。姉は生後20日あまりで亡くなっている。命名は安武松太郎先生で、私が小6、弟が小5の時に、少年少女会に入会、お育て頂いた。

 昭和37年8月、ご本部の少年少女会全国大会に初めて参加し、全国の若葉が集う様子を目にし、感動した。音楽行進を見て、こういうことをやりたいと願い、博多教会の先生にお届したところ、”音楽隊の中心人物になるように、将来はリーダーになるように”と言って頂いた。

 練習に打ち込んでいくうちに、音楽のエネルギーに引き込まれるようになっていった。その後全国大会では鼓笛隊で参加し、沿道の大勢の方々に拍手を頂いてうれしかった。糸島高校入学後はブラスバンド部に入部、活動した。福岡大学入学後も、ブラスバンド部に入り、全日本吹奏楽コンクールに出場、1年生では準優勝、3年4年では優勝するという栄誉を頂いた。まことにうれしく有難く、すばらしい経験をさせて頂いたと思っている。

 47年に卒業を控え、世のため人のためになるような仕事をと願い、セキュリティーの仕事を見出し、セコム(株)に入社し、現場を経験した後、49年東京に転勤した。

 博多教会で結婚式を挙げて頂き、新婚旅行はご本部参拝だった。松戸に新居を構え、52年に長男、54年には次男を授かり、56年に長崎に転勤した。そこで命を助けられた。

 大雨のために大水害に巻き込まれた。車に乗って外に出たのだが、水の量がすごくて、たちまち水に飲みこまれてしまった。ドアを開けたくても水圧で動かず、このままでは死ぬかと思われたが、ガソリンスタンドの男性が、外からドアのガラスをたたき割って、外に出して下さった。それで助かったということがあった。

 これに限らず、生活の全般にお取次を頂き、家族一同安心して生活させて頂いてきた。今後もお礼を土台にした信心を進め、信心実践に取り組んでいきたいと願っている。




●最後は山本和正さん(横浜西) 昭和26年生まれの74歳。

 「私の祖母は金光教真砂教会にお参りしていたような記憶があるが、私自身は信心とか信仰とあまり縁のない生活を送っていた。

 信仰との出会いは、妻との結婚からで、妻一家は熱心なプロテスタントの信者で、日曜礼拝を欠かさない一家だった。私もそれにお付き合いするような形で、日曜には参拝したし、結婚式も結婚式場で挙式する前日に、教会で近親者だけでキリスト教式の結婚式を挙げて頂いたりした。男の子が二人生まれたが、二人とも洗礼を受けて、洗礼名を持っている。

 結婚後4年目に、友人の運転する乗用車で事故に遭い、頭がい骨骨折で運ばれたが、瞳孔が開いているとかで、危篤状態だったらしい。脳専門の名医と言われる方がたまたま当直で、助けて頂けた。これこそ人生最大のおかげと感謝している。


 妻とその家族は信じるキリスト教の神に、母はその頃信仰していた神に、そして父は真砂教会にお願いしてくれて、私は助けられたが、その時、神はいくつあってもいい、神を信じて祈ってくれる人たちが、私の心の支えになっていると思った。

 その後、妻との間に齟齬が生じ、離婚することになった。今思えば、神への向かい方が、妻とは全然違っていた。心から信心していれば、離婚することはなかったかもしれないと思っている。

 さて、横浜西教会との出会いであるが、それは父が作ってくれた。父が「死んだらここに連絡してほしい」とメモを残していたので、電話をしたら、最初に駆けつけてくれたのが、山田先生であった。

 先生と金光教のおかげで、父を見送ることが出来て、その後お礼に横浜西教会を訪問し、そこから信心のきっかけを頂いたと思っている。キリスト教への私の信心は、本心からの信心ではなく、妻へのお付き合い信心であったと思う。

 信心の妨げになっていたものは何か。若さ、過信、傲慢、自立精神などなど。信心するためには、心に信心の土壌が整っていることが大切ではないかと考える。私の場合、父の導きである程度は土壌が育っていたのではないかと思うのだが-----。

 また、信心の支えになるものは、出会う教会とか教会長ではないか。教団の立派さはあまり関係ないように思うのだが----。オカルト教団などは別として、日本の宗教のみ教えは、似ている部分も多い気がする。

 金光教が寛容な神であることに甘えていると思うことも多いが、子供のころから信心している人と、信心の土壌が違うのかもしれない。金光教という船に乗って、信仰の道を進ませて頂きたいと願っています」。


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 以上で、4人の発表者の方々のお話が終り、休憩の後、山田信二先生の感話を頂いた。



●山田信二先生 感話

 「講話と夕食の会の感話をするようにと仰せつかったが、感話というのは、前もって準備するわけにいかない。発表された方々のお話を聴いて感じたことを思いつくままにお話させて頂く。蛇足にならないように気を付けたい。

 まず、金光教は神道かそうでないのかという質問にお答えする。結論から言うと、私は神道ではないと考えているが、神道であるという言い方もできるかもしれない。

 神道をどう定義づけるかによる。私が神道ではないと考えるのは、明治維新以後の近代における神道は、国家神道と言われる、天皇を中心にした国家をつくるために制度化されたもので、それが戦争遂行にも機能した歴史がある。その意味では、金光教は国家神道とは別物である。


 国家神道体制を作る際に、神社神道とは違う、教祖による独自の教えを持っている宗教13派を教派神道として分類したが、金光教もその一派となった。

 教団組織化の上で、儀式を神道から借用したこともあり、神道の一つであるとみなされることもある。昔は天津祝詞とか大祓詞をお唱えしていたが、あれはよその神様に対する祈りの言葉であった。このことを問題にして、教祖100年祭の時に、教団独自の拝詞や祭服などを制定したのである。

 いずれにしても、金光教の教義は金光大神様独自のものであり、神社神道、特に国家神道とは一線を画すものである。ただし、国家神道ではなく、日本古来の、またアジア的な、自然万物に神が宿り、その中に生かされているという考え方を神道と捉えた場合、その大きな流れの中に金光教はあるということはできるかもしれない」


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 ここで牧野真幸先生(甲府教会長)から発言があり、

「昔、神社神道の偉い方に、”金光教はいいですよね、み教えがある”と言われたことがある。

 神道には清く美しく生きるという目標があるだけで、み教えというものがないのだとか。私はこのみ教えがあるということを、重要なことだと思っている。

 仏教は神道ですかとかキリスト教は神道ですかと聞かれることはない。金光教も神道ですかと聞かれれば、金光教は金光教ですと答えるべきだと私は思っている。ここに誇りを持ちたい」


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 引き続き山田先生のお話

 「さて、感話に戻ります。4人の方々それぞれに、人生を振り返って、信心というものをみつめておられ、若い頃の体験は強烈な印象を残すのだなあと思った。

 清水さんは、電車内で御神米を差し上げて人を助けた体験から、御神米の働きを感じ、その後御神米をどう受けていくか、こちらの気持ちの持ち方が大事だと考えておられる。これは、おかげはわが心にありということを実感されたということである。

 原田さんは、自転車旅行で雨の中で自転車をこいで、これも神様のお恵みと思って天地の神様を実感された。

 山田さんは、吹奏楽に打ち込んで全日本で2位になって、稽古がすべてであり、努力に無駄がないことを学ばれた。

 山本さんは自動車事故で生きるか死ぬかの大けがをしたが、家族の祈りに助けられた。このような若い頃の感動は今も生き、それぞれの信仰と人生を支えているということを感じた。若い感性がそういう体験を強烈に受け止め、信心を育ててきたのだなあと思う。

 そして、皆さんお取次を頂いたり、書物を読んだり、それぞれに教えをしっかり受け止めておられると感じた。若い時の体験や感動が、教えを聞くことによって育てられ、仕事や社会生活に生きたのだと思う。また、他人とのつながりによって育つということも感じた。

 山田さんは転勤して行く先々で、神様が用意して下さった教会や取次者によって育てられたと感じている。山本さんがおっしゃるように、教会に仲間がいて、育て合いができることも重要である。教会はお取次を頂く場であるが、仲間と共に育ちあう場でもある。今日ここに来られたみなさんには大切な役割がある。

 また、皆さん、とても謙虚であると思った。よく60歳を過ぎた男性はプライドが高く扱いにくいと言われるのだが、今日発表された皆さんは、とても謙虚であることが素晴らしいと思う。

 口々に信心を学び続けよう、信心の稽古を続けよう、とおっしゃっている。信心を求め続けることの大切さを知っておられる。教祖様も生きている間は修行中、学者が年をとってもメガネをかけて本を読むようなものと言われているが、学者が本を読むのは楽しいからだろうと思う。修行をすること、信心することは、本来とても楽しいこと、ご一緒に楽しく信心の稽古をして参りましょう。

 最後に、金光教の葬儀は丁寧だ、よいということをよく聞かせて頂くが、山本さんのお父様は、85歳を過ぎて、教会に来られた。あれは終活だったのだろうと思う。そして、ご自分の死後のことを、息子さんに託すことで、信心を残された。次の世代に信心を引き継いでいくことは大事なこと、どうぞ心掛けて頂きたい」



 最後に信徒部長・山口和賀雄さんのご挨拶

 「予定時間通りに進行出来て、有難く感謝申し上げる。遠く甲府から参加して下さった、牧野先生と岡本さんのお帰りの時間の都合があったのですが、皆さん時間通りにお話を進めて下さり、お礼申し上げる。4人の方それぞれにすばらしいお話を聴かせて下さり、感銘を受けた。


 私の家は、金光教でお葬式を出して頂いている教徒だが、今まで仕事が忙しいのを口実に、金光教のことはほとんど何も知らずに生きてきた。6年前に信徒部長のお話を頂き、この私に勤まるのかと思ったが、皆さんが支えて下さり、やさしく親切にして頂いた。大勢の友人が出来たことを心から有難く思っている。

 今後の人生を豊かに彩って下さる方々を得ることが出来た。この6年、大変でなかったと言えば、嘘になるが、ほんとうに充実した、楽しい時間を過ごさせて頂いた。今日のこの集会が、御用納めとなるが、改めて厚くお礼申し上げる。

 発表者の清水さん、原田さん、山田さん、山本さん、そして司会の山田初子さん、写真担当の原田さん、記録の大塚さん、お世話になりました。ご出席下さった皆様にも心からお礼申し上げます。ありがとうございました」

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 以上で、講話の会は終了し、全員で記念撮影の後解散した。参加者は11教会から28名、夕食の会には13名が参加した。  (報告・大塚)

2025年12月06日