教師会開催 櫻井信一先生(八十八歳)が発題
十二月十六日鎌倉稲村ガ崎教会に於いて第三回教師会が行われました。
出席者 山田信二、櫻井信一・橫山光雄、安達幸則、、奥川美智雄、高橋健雄、櫻井智行、福田俊介
教会担当の櫻井智行師の進行により、十二月十三日に行われました運営会議の内容についての報告がありました。
櫻井信一先生より
昭和十一年五月十七日に川崎教会で生まれ、戦時中は諸岡に疎開をしておりました。
初代の櫻井浅次郎師は神徳家であり、父は事業(社会事業を中心)家、母も積極的にガールスカウト育成の事を進めておりました。 特に金光教だけに目を向けるのではなく、ボーイスカウトやガールスカウトに力を入れておりました。スカウトには教外者の方が多く、親と一緒来ることが多く、その親が参拝するというケースが多かったです。
昭和二十年には教会が焼失、昭和二十三年には父が社会事業を始め、よくご本部に行っておりました。昭和二十七年には新築落成が行われました。そして、昭和三十七年には金光教学院を出まして、青年教師会や少年少女会連合本部のご用を行い、関東教区の中でも運動会等を開催しました。
昭和四十七年には初代教会長の櫻井浅次郎が亡くなり、父は医療関係の仕事をしているので、教会長ということで御用をする事になりました。霊大祭の時期になりますと、千葉県の教会や近隣の教会、神奈川教会の手続きと随分回りました。昭和四十九年には大磯教会長の柴田美津江師が亡くなり兼務教会長となりました。
昭和五十一年には金光ビルという形で、新光会や色々な団体が教会の中を常にウロウロしている状態でした。ところが四十年近くなりますと雨漏りや消防法などで再三注意をうけました。丁度その頃、鎌倉教会解散の話が出てきまして、東京センターとの話し合いの中で、鎌倉教会と統合という事になりました。
この前後の平成二十一年五月二十五日私は脳梗塞で倒れまして、智行は金光教学院で修行中、帰りましたらすぐに布教八十年祭、明くる年には娘の美穂が亡くなり、平成三十年には大磯教会へ仮移転となり、その間に、現在のこの場所へ移りましたが、コロナの時期で、落成式や布教九十年祭がいつの間にか終わってしまった様な状態であります。
こうした流れの中で、今、感じ増すことは、手続教会を含め、後継者の問題や戦後宗教法人法が改正され、土地は個人であっても建物を宗教法人の資格が取得できました。後継者が居らず、いざ解散や合併となると財産の問題等で大変である事を感じております。
・続いて櫻井先生の昔話を中心に懇談をさせて貰いました。