◇ 教師信徒研修会: 横浜布教の歴史に学ぶ

◇月日 2022年3月16日(水)リモートで開催)

神奈川山梨布教百三十年という記念のお年柄をお迎えしたことから、教師信徒研修会プロジェクトでは、テーマに「横浜布教の歴史に学ぶ」と題して、四名の先生からそれぞれのタイトルで講話を伺い、横浜布教について、横浜布教の歴史について、理解を深めさせて頂きました。

ここに講話の内容をまとめて、報告致します。







東方伝道の発端は、教祖様の「西三十三か国はその方が広め、東三十三か国は此の方が広める」との布教精神を先覚・先師たちが受け継ぎ、世と人を助ける取次の業に心血を注がれ、このお道の信心が東方へと伝わって行くのである。

当時、明治政府による宗教政策は厳しいものがあり、自由に布教することが許されず、各地の出社(神道事務局の傘下で布教していた)において、度重なる取り締まりを受けていた。

明治十九年には、大阪難波分所の近藤藤守師が違警罪で三日間拘留され、翌年には医薬妨害の罪で十日間拘留された。その法廷に畑徳三郎師が代理として出廷して、教祖の教えは世俗が言う邪教ではなく、真の道を説き立派な教えであると朗々と説き明かし、無罪を勝ち取ることができたのである。畑師は弁論を機に、「天下の明教」たる本教が世間に理解されていない現実を悟り、教祖の教えが帝都東京において理解され、道を広めなければならないと決心された。

そして、金光四神様から「ハヤクヤルガヨロシ」とのお言葉のままに、明治二十一年三月二十五日に上京して、五月二十一日には四谷区伝馬町で、神道金光教会講社事務所なる表札を掲げて、東京布教に着手する。

畑師は、翌年教会設立認可を得るために、金光教條規(明治二十一年作成)を東京府庁に提出したが、「平素主祭神を鎮祭し神殿等を設け、庶民の参拝を促す様な装飾をし、神事祭祀を行うことは不都合である。」と認可されず、新たに神道金光教会規約として東京府に提出し、明治二十二年六月十三日認可された。

一方、大場吉太郎師は近藤師の命を受け、畑師を助けるために明治二十一年暮に上京、翌年五月には烏森で取次に従い、神道金光教会芝支所との認可を得て、芝布教に従事した。


更に翌二十三年には、虎谷吉兵衛師によって浅草支所が生まれ、明治二十四年には、深川、日本橋、白金支所が開設されたが、東京府下の神道金光教会本郷支所、芝支所をはじめ、それぞれ四か所の支所が取り締まりによって、閉鎖させられるという事件が起こった。その閉鎖は、「神社神道を国家の宗祀とみなし、神社を保護して行くため、日本古来の神以外の主祭神を認めない」とするものであった。

その件に佐藤範雄師らは、明治二十二年に神道金光教会規約によって東京府から認可されたにも拘らず、閉鎖するなど不都合であると抗議、府知事と警視総監との交渉に尽力し、再度の陳情をするなど明治二十五年内務大臣と協議を重ねた末、説教以外でも明治二十六年には、礼拝が認められることになったのである。

また、明治二十四年には、烏森芝支所(金光さま・金光神として)のことが、一般社会から誹謗、中傷を受ける記事が朝日新聞に掲載された。

そのように、明治政府の厳しい取り締まりや、一般社会から様々な批判を受けつつも、明治二十五年から横浜、千住、久松町、八王子支所が開設されるなど、明治三十三年には一教独立を果たしたのである


 


近藤伊三郎師による横浜市山田町における布教の開始
福田源三郎先生が東風七十号に「横浜布教について」とのタイトルで、横浜布教について記述している。その中で「私の父福田助次郎は、横浜布教の創始者ではありません。横浜教会所の創立者であります。

父以前に布教に従事していた人があるからです。三重県上野教会所の近藤伊三郎教正であります。」と記していて、その経緯は三重県上野で信心していた貝増利兵衛氏が芸妓紹介業を営み、横浜に出て商売に励む中、芸妓置屋を経営していた田中てつ氏が導かれ、自ら改式を願い出て、三重県伊賀上野で布教に従事していた近藤伊三郎先生を横浜に呼び寄せ、近藤先生の取次により病気全快のおかげを頂いた。


その田中氏は、明治二十四年三月横浜市山田町に借家を借り布教所の準備が整い、近藤先生により横浜布教が開始されたのである。


東京布教と横浜の関係
横浜に布教拠点を設けたいと考えていた畑徳三郎先生と大場吉太郎先生は、偶然山田町で近藤先生の布教所を見つけ、近藤先生に横浜に来た事情を尋ね、その折畑先生は「まことに勝手な頼みではあるが、この横浜は東京の手で布教したいと思うので、引き取ってもらえぬか」と伝え、その申し出に近藤先生は、「自分も好んで横浜に来たのではないから、快く引き上げます。」と述べ、そして信者さん達に対して、「誤解しないよう、後継の先生を自分と思って信心に励むように」と言い残して、三重県上野に引き上げてしまった。


福田助次郎師による横浜布教の開始
横浜布教に誰を差し向けるかについて、畑先生と大場先生との間で話し合いがもたれ、芝教会所で世話係として御用に従事していた福田助次郎先生が、大場先生の命を受けて、明治二十五年二月十一日「神道金光教会講社事務所」との看板を掲げ、以前近藤先生が布教に従事していた山田町(六畳と三畳の借家)で、布教に従事することとなった。

 


福田助次郎先生のおかげは目覚ましく、参拝者で家の外まで溢れ、三か月後には不老町に移転、「どんなことでもおかげが頂ける。」と横浜中で大評判となり、「神道金光教会横浜支所」との認可を受けて、神奈川県における最初の教会所が、横浜に設けられたのである。

福田助次郎先生と近藤伊三郎先生の教縁
後年、福田助次郎先生の長男義一郎先生が独身であったことから、上野教会の信徒川合万吉氏の妹春子氏を義一郎先生に世話して、教縁を結んだ。 

また、上野教会所開教式の御祈念帳には、福田助次郎先生、田中てつ氏の名前が記されていて、後まで近藤先生、福田先生、田中氏の関わりがもたれていたのである。


 


入信~信者時代

福田助次郎は、一八四六(弘化二)年八月十三日、大阪で生まれた。(注:『あつまの道のいしすゑ』では翌年とされている)。入信の時には銀座で砂糖商を営んでいた。

一八九〇(明治二十三)年三月三日、妻なおの産後の体調不良が機縁で芝教会にご縁を頂いた。その日、大場吉太郎先生によるお道案内を受け、天地の親神に生かされて生きていることを知り、我情我欲の改まりをもっておかげを受ける道であることを教えて頂いたと思われる。その日赤ん坊の体調について、改まりの心から即座におかげを受け、以来夫婦ともに熱心に信心するようになり、助次郎は、芝教会で世話係として入りびたりで御用するようになっていった。

布教開始と道の広がり
一八九二(明治二十五)年二月十一日、四十五歳の時に横浜での布教を開始。東京布教構想の中で、横浜布教にと白羽の矢が立ったのである。当人は大場先生の命を受けてという意識が強く、おかげを頂けなければ大場先生に相済まないというのが助次郎の御用精神。

そのような中で、奇跡的なおかげが次々と起こり、盛んになった。大場先生への尊敬と信頼が御用の根底にあった。教会が盛んになる一方で、自分たちの生活はぎりぎりまで質素倹約した。それが修行だったのだろう。


広前は、山田町、不老町、蓬莱町、羽衣町と移り変わった。不老町時代に教会設立がなり、布教の最盛期であったという。


助次郎は、一九〇六(明治三十九)年八月十三日、帰幽。これはかねて本人が予言していた通り、満六十歳の誕生日だった。この間、助次郎の教えを受けた加藤忠蔵師が小田原教会(一八九五年)、増田金太郎師が神奈川教会(一八九五年)、さらに藤沢教会(一八九二年)、喜多儀平師が甲府教会(一八九五年)を設立した。

教えからうかがえる信心
ここで私の好きな助次郎のご理解を紹介する。
「毎日色々沢山にお願いに来られる中には、大きなことで浮身をやつしているのもあれば、また小さなことで浮身をやつしているのもある。ドウセ浮身をやつすのなら大きなことで浮身をやつして、大きなお蔭を受けた方がよかろう。」

私は、これは大きな信心の目的を持てという意味だと受け止めている。
大きな信心の目的とは何か。一つは、難儀な人を祈り助けるということである。難儀をしている人を見て、神心でその人のために祈り、信心を伝えていくということ。二つ目には、難儀な世界を救うということである。難儀な世界に私たちは生きている。身近な人を助けることと同時に世界が助かることを願うということである。三つ目には、人を助けることを通して神様をお助けするということ。神様からすれば人はみなわが子である。神様は、難儀をしている人間を見ているのが何よりおつらい。だから、人を助けるということは、神様をお助けすることになるのである。

この百三十年の節年に、この「大きなことで浮身をやつす」信心をさせて頂けたらありがたいと思っている。



 


福田源三郎先生は、御教えの感話や、時々の事跡への思いなど多くの文章を書かれています。また、後に伝えないといけないと先生が努めて残された「昔の信心」もあります。そういった文章から読み取れる福田源三郎像をお話ししたいと思います。

先生の話に入る前に、連合会がいつ頃できたのか、振り返ってみましょう。
昭和十九年四月、前年に設置されていた「金光教報国会隣組」を改訂する形で、「教会隣組」が設置されます。その目的に「教会布教所相互間の連絡援護協同実践体」とあることから、今日の教会連合会がここから始まったことが分かります。

そして、昭和二十三年には「教会連合会」と名称変更され、全国で区域の統廃合や名称変更を繰り返して現在に至ります。神奈川県では、昭和十九年以来「神奈川県東部」「神奈川県西部」で、昭和六十四年一月一日に東西合併するまで同じ区域割りです。そして、平成十一年に山梨県が合併して現在の形になりました。

さて、福田源三郎先生に話を戻しましょう。
先生は明治二十年にお生まれになりました。明治二十三年には福田家が金光教に入信、二十五年には父である助次郎先生が横浜布教に出られます。明治三十七年に友人の死をきっかけとして金光教の教師を志し、三十九年に父である助次郎先生が亡くなり、その葬儀父の下で出来ない信心修行を外に求め、明治四十二年、東海から九州へと教会行脚に出て、その求道を深めていかれました。そして、当時担当者のいなかった神奈川教会へ入られます。

 

今で言う連合会ができた昭和十九年には、東部教会隣組長に就任していますから、父の後を受けて神奈川県布教に邁進…というイメージがありますが、ご自身で回想した文章には、ハワイ行きに乗り気になったことや、関東大震災後の焼け野原で、「布教も何もあるものか、どこか他地方へ行って布教するのだ」と考えたところ、信者に縋りつかれて目が覚めたことなど、二十代、三十代の頃は、こだわりはなかったようにも読み取れます。



そんな先生が果たした役割とは、どういうものでしょうか。連合会ができたころにはすでに五十代後半。最前線に立って引っ張っていくということはなかったようです。平塚教会の奥川達雄先生は昭和二十年代の定期説教講師勉強会の様子を、「若い世代を自ら導いていくことはあまりなかった。むしろ、共に求めあうという姿勢、自ら求めていくものには真摯に対していくという姿勢であった」「み教えの解釈を披露し合う会では、参加者の答えに喜々として耳を傾けておられた」と振り返って話してくださいました。

冒頭に記しました「昔(教団独立以前)の信心」を残すことについても、懐古主義ではなく、当時を知っている者として、一番純粋に神様を求めていた時代を記すことが自身の役割とされていました。

長老教師と呼ばれる立場にあって、上意下達という形はとらずに自身の役割を果たしつつ、「共に求める」という態度をもって御用に当たられたことは、連合会活動の上にも大きな影響を与えたことと思います。

2024年01月19日