小田原教会
設立 1895(明治28)年2月7日
住所 〒250-0004 神奈川県小田原市浜町1-1-37
電話 0465-22-3721
交通 小田原駅 (JR)より徒歩15分
初代教会長加藤忠蔵師によって明治二十八(一八九五)年に認可を受けたが、その入信や布教の状況については明らかでない。
その後、明治三十六年から三十八年まで後の渋谷教会長谷口安次郎師が教会長を務められたあと、伊藤新十師が第三代教会長に就任された。
師は、初め千住教会に参拝され、後に東京教会の修行生として畑徳三郎師の教導を受けられている。そして大正二年、小田原に移られてから十七年間取次の御用に専念された。
教会の基礎はこの間に築かれたといっていい。昭和六年に帰幽された後は、四男正直師、六女美曾技子師、七女安田綾子師がそれぞれ五代、六代、七代の教会長を務められている。
そして、綾子師の帰幽後は、その夫、好三師が教会長を務められ、その後、好三師の娘婿宮川宜信師が受け継ぎ、さらには、宜信師の妻優子師、そして、長男昌也師に受け継がれ今日に至っている。
現在はSNSを用いて教会の情報やみ教えを発信している。
神奈川教会
設立 1895(明治28)年2月9日
住所 〒221-0057 神奈川県横浜市神奈川区青木町6-25
電話 045-44-0557
交通 ①横浜駅きた東口より徒歩10分
②神奈川駅(京浜急行)より徒歩5分
田中よし師が一時布教された後を受け、横浜布教の祖福田助次郎師のお取次を受けた増田金太郎師が、神奈川七軒町で布教に奉仕されたのが、神奈川教会の始まりである。
明治二十八年には、正式に地方庁から認可を受けた。このときから数えて今年(令和四年)は百二十七年になる。
その後、助次郎師の長男義一郎師、次男甲次郎師と続き、明治四十二年四男の源三郎師が奉仕されることになった。東海道から九州まで、四か月を費やしての教会行脚の後のことである。以来昭和四十三年の帰幽まで、実に五十九年の長きにわたって、お結界奉仕が続けられる。
この間、関東大震災、戦災で二度も灰燼に帰したが、焼跡の中で教燈は絶えることなく、また数多くの手続き教会が生まれた。京浜布教における源三郎師の功績は、はかりしれないものがある。
また、教区副支部長、専掌、教学部長、機務顧問、審査局長など教団の上にも数々の役職を歴任され、学生寮の理事長も務められた。
源三郎師帰幽の後は夫人みち師が、昭和五十年からは長男俊雄師が平成二十六年からは俊雄師の長男光一師が奉仕されている。歴史と伝統を担い横浜市の中心としての役割も大きい。
横須賀教会
設立 1901 (明治34)年3月20日
住所 〒238-0016 神奈川県横須賀市深田台32
電話 046-824-3069
交通 横須賀中央駅(京浜急行)より徒歩8分
初代田川達造師は明治三十一年六月、芝教会初代大場吉太郎ご夫妻、福田助次郎師、宮田源五郎師等と共に来横。 実査の上現教会所在地を境内地と定めるや、二十二日、万感の思いを胸に横須賀布教に着手することとなった。
更に明治三十四年、参来る人々、信徒・教徒になる者も急速に増加の一途を辿り、三月二十日教会所設置が認可され、同年四月二十日、横須賀小教会所主管者に就任。そして五月には長女仁氏(後の四代教会長)が金光中学本科(今の学院)試験に合格。
達造師の身辺に多年願い続けて来た事柄が、一つ一つ実を結び、大きな喜び事が相次いだのであるが、教会開設のその年、十二月四日。芝教会において一場の教話を演了さるや突如人事不省の状態に陥り、御歳四十五を限りにお国替えされたのである。惜しみても余りある突然の御帰幽であった。
初代達造師以来、その教えは代を重ねて受け継がれ、令和四年には横須賀布教百二十五年を迎えた。 初代の遺された『心をば 教えの縄にしばられて 我が身自由に ならぬ嬉しや』の精神を土台にして、現代社会に溢れている難儀な人々に接し、そこで出遭う難儀の諸相を教師自らも体感し、確かなる道の有り難さを説き伝えていくことこそ、求められる横須賀布教のここからの歩みであると信じて行きたい。