◇ 神奈川山梨布教130年: ご霊地集会

初日
◇月日 2022年10月1日(土)
◇場所 ご本部修徳殿
◇内容 ご霊地集会
 記念講演 金光英子先生
2日目
◇月日 一〇月二日(日)
◇内容 ご霊地ツアー、三コース
1、図書館展示室と苦楽庵
2、金光英子先生と歩く境内聖跡
3、木綿崎山の奥で出会う教祖様









一八九二(明治二十五)年に初代横浜教会長・福田助次郎師によって、現在の神奈川山梨教会連合会内での公式の布教が始まりました。今年はそれから満一三〇年を迎えたことから、当連合会では、さまざまな記念事業を行っています。

そのメインイベントとも言える神奈川山梨布教一三〇年記念「ご霊地集会」が、二〇二二年十月一日と二日の二日間にわたり、ご霊地金光で行われました。


初日は修徳殿でのご霊地集会、翌日は三コースに分かれてご霊地ツアーが行われました。

この集会は、当初は、コロナ禍で長くご本部参拝ができなかったことから、コロナが明けたところでご本部に参拝し心をそろえて一三〇周年のお礼を申し上げよう、という願いで企画されました。

残念ながら、第七波まで感染状況は続き、万全の状況とはなりませんでしたが、願いを込め感染対策を施して、82名がそれぞれの教会ごとに新幹線、飛行機、貸し切りバスでご霊地に参集し、集会に参加しました。初日の修徳殿でのメイン集会には80名、二日目のご霊地ツアーには54名が参加しました。



ご霊地集会のメインである修徳殿での集会は十月一日午後二時三十分に、伊藤かおるさん(鎌倉教会)の司会で開会。


主催者を代表して、連合会長・山田信二先生(横浜西教会)があいさつ。

「一三〇年前、福田助次郎師が横浜で公式の布教を始められました。そしてそこからさらに多くの先生方が神奈川県山梨県で布教の御用を開始されました。

その後には布教精神を受け継ぐ人があり、展開させる人があり、教師信徒の区別なくお道を伝え伝えられ、助け助けられて、今日に至っています。

改めて、布教を始めた人たち、御用を受け継いだ人たち、そして信心を伝えた人たちの、その原動力は何だったのかに思いをはせた時、それは『喜び』であったと思います。金光教を伝えたというよりも、金光教の信心をして得られた喜びを伝えたということだと思います。

このご霊地は、その信心の喜びの原点であり源泉です。今日明日このご霊地で、一三〇年のお礼を申し上げることはもちろんですが、しっかり私たちの信心の喜びをチャージして、またそれぞれの場で、御用にあたり、喜びを表して頂ければと思っています」と語りました。


続いて、福田光一先生(神奈川教会)の先唱で、「神徳賛詞」「天地書附奉体」「神奈川山梨布教祈願詞」を奉

教祖様に始まり先覚先師、信心の先輩たちを通して、今信心のおかげを受けている喜びをかみしめつつ、お礼のご祈念を捧げました。「神奈川山梨布教祈願詞」はこの記念の年にあたり、各教会でも奉唱しているものです。

 

 


記念講演
そして、横山光雄先生(丸子教会)が講師を紹介し、記念講演に移りました。

講師の金光英子先生は、金光教本部在籍教師(一九七四年補命)で、一九七二年から金光図書館に奉職され、司書、学芸員、次長、主任司書を歴任され、二〇一二年から二〇二〇年までは金光図書館長として図書館事業に尽力されました。

その他、教内では金光教祭詞起草委員、教団施設審議会委員、教統者記念館審議会委員、学院教育検討委員会委員などを歴任。教外では、岡山県図書館協会理事、岡山県図書館協会記念行事実行委員長など多数歴任されています。

『バラの花咲く』『白川家の門人』『金光喜代さま』『金光様と共に生きた女性たち』『浅口の名所(共著)』などの著書もあります。お父様は金光真整先生(三代金光様の三男)です。


質疑応答・閉会

このお話の後、大塚東子さん(武蔵小杉教会)の進行で、熱心な質疑応答が行われました。

 

閉会行事では、連合会副会長で信徒部長の山口和賀雄さん(子安教会)が、「今日のご霊地集会は、今年の記念事業の中でも一番重要な行事です。

たくさんの方に参加いただきありがとうございます。

こんなにたくさんの方が参加してくださったのは、今日お話しくださった、金光英子先生の人気のおかげです。ありがとうございました。

金光英子先生のお話を初めて聞かせていただきましたが、とても聞きやすく、わかりやすく、すとんと入ってきました。家族が仲良くすることの大切さを思いました。また自分を変えることを教えていただきました。
『三つの大切なこと』、『できることは何なりと喜んでさせていただく』『できぬことにお詫びを申す』『できたことにお礼を申す』ということを頭に入れて、させて頂きたいと思いました。
ありがとうございました。」とあいさつをしました。


引き続き辻秀志さん(小田原教会)が天地書附奉体を先唱し、閉会ご祈念を行いました。





講師の金光英子先生は、参加者にチョコレートをお持ちくださっていて、参加者は出口で頂きました。
これは三代金光様の奥様がよくキスチョコをくださったことに因んでのことだそうです。
講師の心づくしをありがたく頂きました。
そして、全員境内に移動し、教主金光様のお退けをお見送りし、会堂正面の階段でまぶしい夕日を浴びながら記念写真を撮りました。


 




 

おない年を使え 
「二代金光様のご信心」

◇プロフィール
二〇一二(平24)年金光図書館長、二〇二〇(令02)年金光図書館嘱託、二〇二一年十月三十一日退職
金光教本部在籍教師、金光教本部在籍教師の会代表、霊地少年少女会リーダー、ガールスカウトリーダー
一九七八(昭53)年から典籍編集委員会に五年間在籍し、金光教教典の編纂に当たる。金光教祭詞起草委員、教団施設審議会委員、教統者記念館審議会委員、学院教育検討委員会委員などを歴任
大谷アーカイブ会長、浅口市文化財保護委員、人権擁護委員、笠岡人権部会常務委員、子どもの人権部会部会長、ガールスカウト岡山第1団リーダー、岡山県図書館協会理事、岡山県図書館協会記念行事実行委員長、読み聞かせ講師、人権教室、読書感想文書き方講座講師、岡山ビジネスカレッジ講師などにあたり、日本宗教学会、日本図書館協会、国史学会、岡山県歴史研究会などに所属している。著書「バラの花咲く」「白川家の門人」「金光喜代さま」「金光様と共に生きた女性たち」など、共著「浅口の名所」




二代金光様(金光四神様)の教えに「人を使いたかったら、同い年を使え」という教えがあります。


わが家でも金光様のお宅でもよく「同い年を使え」という言葉が使われてきました。大儀だなあ、今はしたくないと思っている時に、人を使うのではなく、「同い年」(つまり自分)を使えということです。この言葉を言いながら、大儀がっていた人が嬉々として動き始めることをよく見てきました。

この教えは私の中に深く染み込んでいるものです。人をあてにしたり、責めたりするような心が「同い年を使え」という一言でひっくり返り、できることはさせて頂こうという気持ちになるのです。そこで講題を聞かれて、二つ返事でこの言葉にしました。

四神様の生涯を話すと長くなりますので、特に私の生活と深くかかわっていることを話したいと思います。

お誕生は安政元年十二月二十五日でした。その時に、当時忌まれた「四十二の二つ子」という生まれ合わせだったために、「この子は置くまい」と言われました。この頃の農村社会では、貧しい中で多くの子どもを育てることは大変なので、嬰児を川に流すようなことが一般的に行われていました。

金光四神様は、生まれたとたんに命の危機にさらされました。その時に教祖様の養母のいわ様が「わしが育てる」と言い、家に置いて育てることになりました。金光四神様がもしもこの世におられなかったら、今の金光教はありませんから、いわ様は金光教の恩人といってよいと思います。

一般の家庭であれば弱い立場にあるはずの高齢女性のいわ様の言葉に従ったということから、教祖様のご家庭にあっては誰にでも発言権や決定権が与えられていたということがわかります。これは当時としてはすごいことでした。教祖様のご家庭と同じように、私の育った家庭でもそうでした。どんな小さな子どもが言うことでも、女性が言うことでも大切にされながら、家族仲良く暮らしていました。

金光四神様は六歳の時に大病をなさいます。湯水ものどを通らなくなりました。その時に教祖様に神様が「生まれ年を変えておろうが」と言われました。四十二の二つ子なので、十二月二十五日生まれを翌年の一月二日生まれにしておいたのです。そこで「わかりました。戻します」と言って戻したらおかげを頂かれました。

その時のことを、金光四神様は、亡くなる二日前のご遺言で「われは六歳の時に死ぬるのを、親様の一心願より助けていただいたは、神様のおかげならこそ。…われは死ぬることは構わん。六歳の時に死んでおれば、それまでのこと。…どうぞ摂胤を使うてくだされ。」と言われたように、親様の信心で自分の命は助けられたと言っておられます。二代金光様が親様を頂き切ろうというようになられた始めが、六歳の大病だったと思います。

金光四神様がお生まれになった時には、兄の浅吉様が十歳、萩雄様が六歳、姉のくら様が四歳、ご両親は教祖様四十一歳、登勢様三十六歳、いわ様は六十三歳でした。そして四神様が四歳の時、妹のこの様が生まれました。そうした家族構成の中ですくすくと育たれました。四神様はどんな人のことでもよく聞いて、受けていかれた。そういう子どもさんであられました。

二代金光様は二十歳の時に伊勢参りに行かれました。途中裏参りと言って、女人禁制の大峰山に登るというこ
とがありました。他の人たちが登る中、四神様は登れないこのさんのために一緒に下で待っているような優しいお兄さんでした。

ある時、四神様は教祖様に言われて総社に行きました。行く時に、教祖様に「傘を持って行きましょうか」と尋ねたら、「傘は持って行かないでよろしい」と言われました。そこで傘を持たずに、帽子のような笠だけをかぶっていったら、案の定ぽつりぽつりと降り出しました。傘を勧められても「親様がいらないと言ったので」と言って断って傘をささないで帰ってきました。かなり降って濡れたのですが、上着を取ったら、体は濡れていなかったということがありました。そのように、親様の言うことをきちんと聞こうとしておられました。

四神様はとても手先が器用で、いろいろなものを手作りされ、大工さんが驚くほどの出来栄えでした。また、大谷の海坊主と言われるほど、水泳が上手で魚とりも上手でした。

二十五歳の時に結婚しました。相手は隣村黒崎村の親戚筋の安部喜代(高清姫様)という方でした。結婚した二人が住むことになったのは、東長屋でした。ここは今でいう会堂地下休憩所のようなところです。参拝した人がお茶を飲んだり、寝たり、時にはお酒を飲んだりするような、プライバシーが全くないところでした。高清姫様も大変だったと思います。

明治六年、四神様二十一歳の時に、教祖様から子どもたちに「申し渡しの覚」というものが渡されました。これを金光四神様は大切になさり、ご家族に渡されていました。これを超訳英子訳で言いますと、「よーく勉強しましょう」「金儲けには走らないで」「結婚は神様にお任せ」「不便不自由倹約が人を育てます」「人と比較しない、比べない」という内容です。そして基本は「仲ようせい」です。本当は難しい言葉で書いてあります。これは布教差し止めがあった時に、ご家族がいろいろな心配を抱えた時に言われたことです。

 

金光四神様は「申し渡しの覚」の内容を忠実に守っていかれました。家の床柱に貼っておられました。取次者の一家はこれを指針として生きておられたのです。この申し渡しの覚の内容は、金光様のお家に伝わっていきました。

金光様の家にはいろんな人が出入りします。上司や養子先の教会長の悪口を言う人がいました。そうすると、キクヨ姫(三代金光様の奥様)が「勉強じゃなあ」と言われるんです。すると私の父が「勉強、勉強、勉強しましょう」と言うのです。これはどういうことかというと、学者の福岡伸一先生は「勉強は自由になるためにする。今までの自分を、勉強をすることによってこわすのだ」と言っておられます。これは金光教用語でいうと改まりということです。「勉強、勉強、勉強」と言うのは、人の悪口を言っている暇があったら、実力をつけて自分が変わりなさいということです。

教祖様はお祭り日にはお餅をお供えすることに決めておられました。ある時そのお下がりを分ける時に、兄弟げんかになった。その時に教祖様は、けんかのもとになるのならお鏡のお供えは止めましょうとおっしゃった。そうだったんです。仲良くする方が神様の意に沿うのであれば、自分を壊して自由に変わるのです。人の悪口をいっぱい言っていた時に、「同い年を使え」ばいいんです。そうすると自分が自由になる。そうなると相手も変わるかもしれないです。申し渡しの覚にはそういうことが書いてあるのです。

私はそれがわかったのは60歳を過ぎてからでした。私たちも人の悪口を言っている暇があったら、自分が「同い年」を使って勉強したらいいのです。

三代金光様がお生まれになったのは明治13年。その頃、金光四神様は教祖様の後ろにあって、教祖様を頂き抜かれていました。天地書附を書いたり、ご神米を作ったりされていました。そして、夜中に力のこもったご祈念をなさったり、寒修行として真夜中に井戸でザーッザーッと水をかぶったりしておられたそうです。金光四神様は表行(わぎょう)をなさっていたのです。

表行と言うのは水垢離を取るなど表に見える修行のことです。表行に対して心行は日常の生活の中で起こってくることを信心の修行として取り組み、心を改めていくことです。金光四神様は「表行をしないで心行ができますものか」とおっしゃっていて、ご祈念をするとか、暑い時に暑さを感じたり寒い時に寒さを感じる表行も大切にされました。それを教祖様は、「宅吉(四神様)は頼りになる」と思って見守っておられたと思います。


明治十六年に親様が亡くなった後に、四神様がお結界にお座りになりました。お結界恪勤はたいへんな重労働で、萩雄様はじめ他の方にはできなかったのではないかと思います。四神様は教祖様の生前から教祖様の後ろにいて同じことをなさっていたからできられたのだと思います。

座り始めた時には、「毎夜十二時を過ぎますと親様が元の通りにお出ましになって、お届けの帳面を三ヶ年の間ご祈念くださいましたので、不徳な私もお結界が勤まりました」とおっしゃいました。本当に最初は大変だったと思います。「教祖様は頂くが四神様では…」と思う方も多い中、ただただお結界取次をなさっていくことは大変だったと思うのですが、「申し渡しの覚」を繰り返し見ながらそれを実践して座られたのだと思います。

その頃、子どもたちに「男は八つになったら、女は六つになったら、ご飯炊きやら風呂焚きやら家の手伝いをさせてもらうのでなければ」とおっしゃいました。佐藤範雄先生は子どもだった三代金光様が作った料理を食べて感激されました。男女共同参画で男性も台所に入りましょうと言いますが、教祖様のご家庭では男も皆お料理を作っていました。三代金光様も私の父も家事育児をしておりました。私は、父にスカートの寝押しをしてもらっていて、友達に驚かれたことがあります。


金光四神様は金光教の中興の祖であり、後継者のお手本です。教祖様のお子さんには浅吉さんも萩雄さんもいました。四神様は一番下の男の子でした。一番何でも受けて喜んでなさいます。「できることは何なりと喜んでさせていただく」「できぬことにお詫びを申す(素直に何の言い訳もなく)」「できたことにお礼を申す」。この三つの大切なことをしていれば大丈夫という姿勢です。これも「同い年を使え」ですよね。それに尽きるのではないかと思います。それは喜び上手なんです。


私の母は九十九才ですが、奥城参拝もし、私の三食も作ってくれるんです。その母は九十一歳の時に圧迫骨折で六ヶ月寝たきりになりました。その時に「私は九十一年生きさせて頂いてきた。イヤなことや辛いこと、難儀なこと、いろんなことにいっぱい遭ってきた。でも今はありがたかったこと、うれしかったこと、楽しかったことを思い出して、ありがたがって、うれしがって、楽しがっているので、ちっとも辛くないのよ」と言ったんです。今九十九歳で普通に歩いて、三食を作れるのは、この「三つのこと」があったからです。

この「できることは何でも喜んでさせて頂いて、できぬことにお詫びをして、できたことを喜ぶ」ということが、このお道の信心の生活にあることは幸せじゃないですか。それは金光四神様の御信心をいただいているからできることです。

これからのお道に必要なのは、金光四神様のような方だと思います。私もなかなかできませんが、金光四神様をいただき喜びながら信心生活を進めたいと思います。信心の継承とよく言われます。これからの教会にも、ご信者さんの家庭にも金光四神様のような方が後継者として生まれ育って下さることを念願して私のお話を終わります。


2024年01月19日