◇ 地域交流会: 横浜ゆかりの地を巡る

◇月日 2022年3月27日(日)
◇場所 神奈川県横浜市内








令和四年は神奈川山梨布教百三十年になります。
そこで横浜布教に貢献された初代横浜教会長・福田助次郎先生の奥城(注1)に参拝した後に、百三十年に亘る先師の方々のご苦労を偲びながら、横浜教会が変遷したゆかりの地を巡りました。
(注1)墓を意味する言葉で「おくつき」と読みます


1、さあ出発


朝十時、保土ヶ谷駅に各教会からの参加者十九名が参集しました。体力に合わせて歩き隊、市営バス乗車隊、タクシー乗車隊に分かれて奥城のある横浜久保山墓地へ向かいました。

歩き隊は、最年少参加の小学生が金光教旗をかざして先頭を歩き、久保山への急坂を上り、四季の歌を合唱しながら遠足気分で行進しました。

 隊は、乗車時間十分ほどで到着してタクシー隊と共に全員合流、奥城参拝に向いました。天気は上々で久保山墓地からは、東京タワーと東京スカイツリーが遥か遠く眺められました。

2、奥城参拝


福田助次郎先生のご子孫である福田光一先生の先唱で祖先賛詞を全員で奉唱しました。福田光一先生のご挨拶では、「教祖様の『万国まで残りなく金光大神でき』という日本中から世界中に信心を伝える願いを受けて、この横浜は先人たちが多く通られた重要な地であります。」

「そのような地で私たちはしっかり信心して信心の助かりを広く伝えて、あいよかけよの精神で助け合うことにより戦争のない平和な世の中を作りましょう。」と話されました。

3、奥城から最初の横浜教会跡地「山田町」へ
奥城から山田町へは歩いては時間がかかるため、バス乗車隊とタクシー乗車隊の二手に分かれて山田町手前の山吹町公園に集合しました。

ここからは、また金光教旗をかざした小学生を先頭に山田町へ向かいました。山田町は二丁目十二番地と記録があったので地番が変わった可能性があるものの、現在の番地で推定された場所で拝礼しました。

4、山田町から二番目の跡地不老町へ
山田町では、布教三か月で手狭となり不老町に教会は移転しました。不老町の時代が横浜教会の最盛期と言われています。

不老町での所在地は、二丁目一六七番地と記録がありましたが現地を特定できずに不老町二丁目と表示された交差点にて拝礼しました。不老町の手前に二年前に完成した横浜武道館があり、ここで休憩しトイレもさわやかでピカピカの施設でした。

5、不老町から三番目の跡地蓬莱町へ
蓬莱町では、横浜教会は大火の類焼で建物は焼失しました。蓬莱町の跡地についても、詳しい番地は不明で三丁目であったことが分かるのみでした。そこで蓬莱町三丁目のほぼ中心で拝礼いたしました。

6、蓬莱町から横浜教会最後の跡地羽衣町へ
羽衣町の跡地は、横浜大空襲で資料がほとんど無い中でかろうじて入手できた地図に金光教会と記載されていたおかげで、場所が関内駅前の一等地だったことが判明しました。現在はコインパーキングとなっていて、そこで一同拝礼いたしました。

羽衣町には、広島の厳島神社の分社である厳島神社が現存しています。源頼朝の勧進により治承年間に創建された由緒ある神社です。荘厳なたたずまいは、横浜大空襲で焼失したかつての横浜教会を彷彿とさせる感があり、ここでも拝礼させていただきました。この後、関内駅にて解散しました。


◎おわりに
私たちの信心のよりどころの一つである大切な教会が戦火に見舞われて失われた歴史を顧みて、二度とこのようなことが起きないように願うとともに、同様な惨事にあるウクライナの戦争が早く終結して人々が平和に暮らせるように祈念します。

2024年01月19日