神奈川山梨布教130年記念 「ご霊地ツアー」

「ご霊地ツアー」
(令和4年10月2日午後12時30分~2時30分)

10月2日、1時間ほど前までは人があふれ返っていた境内は、本部大祭を終えて静まり返っていました。

ツアー参加者は祭場北側に続々と集まり、定刻午後12時30分にご霊地集会第2部である「ご霊地ツアー」が始まりました。

このツアーは、私たちの信心の原点であるご霊地をより深く知り、その魅力を発見していくことを願って行われました。以下、ツアーの様子を3人のスタッフが記します。


第1コース「図書館展示室と苦楽庵」

ご霊地ツアー第1コースでは、まず境内において安達幸則より教祖様が御用され、歴代の金光様が御用された広前の変遷について説明をしました。

立教聖場は教祖様のお広前を昭和8年に再現したものです。教祖様以来の広前では二代金光様も御用されました。老朽化のため明治24年に改築され、その広前が質素なものであっため、九州布教の祖(桂松平先生)が広前建設の願いを立て、最高級の用材を献納するなど機運を盛り上げ、明治43年から12年の歳月をかけて大教会所なる壮麗なお広前が建築されました。

その本殿は、「荘厳比類なく日本建築界の誇り」とも称されましたが、その喜びもつかの間、大正14年4月14日、失火により炎上し建造物の大部分を焼失しました。その時、三代金光様は「物はみんな焼けましたが、神様さえありますれば問題ありません」と仰いました。その時、金光様のお住まいも焼け、仮の広前で御取次が始まり、以来「お出ましとお退け」が始まりました。

また、この炎上に際して、高橋茂久平先生と佐藤金造先生が「燃え上がる天の炎をそのままに道の光となすよしもがな」「なせばなる道の光となせばなる なさねばならぬ時はこの時」と歌を詠まれたと、牧野眞幸先生から説明がありました。

そして、唯一焼失を免れた正門に素晴らしい彫刻が施されています。これは金子吉蔵師(建築彫刻家)の手によるもので、正門は大正14年1月頃竣工しました。その金子師は、27歳の時に眼病を患い白金教会に参拝しおかげを受けられ、後に教師となって御田教会を開設されました。

また、炎上した大教会所の焦げた柱が、現在の手水場に使われております。(西南の柱で少し削られている)
その後、大正15年に仮神殿(修徳殿の中央部)が建築され、昭和18年に両脇殿が新築されて三代金光様、四代金光様がお取次ぎなされ、昭和48年に現在の会堂でお取次ぎが行われています。

引き続いて、金光図書館に移動し、金光大神のご生涯を資料に基づいた展示について、兒山真生先生より第1期から第6期に分類して詳しく次のような説明を受けました。

☆第1期は「生い立ち」。文化11年の出生から、大谷村川手家への養子縁組後、家督相続・結婚など天保7年まで。

☆第2期は「神との出会い」。天保8年の家督相続から子供をめぐり、喜びや悲しみに直面する中で、神との出会いを通して無礼に気づき、助けられた「42歳の大患」の安政2年まで。

☆第3期は「神の頼みを受けて」。安政3年の「立教神伝」を受けて「仰せどおり」に家業をやめ、居宅での広前奉仕、実弟香取繁右衛門をとおして金神の宮の建築、七墓つかされた理由や神との関係など文久3年まで。

☆第4期は「広前を訪れる人々とともに」。元治元年から二間四面の宮建築、浅尾藩による出社神号差し止め、金光大神の奉仕する広前に、助かりを求めてくる人々や修験者や官憲などの様子。更に、変化する環境や制度に応じ神勤資格の習得と神のお知らせ、また、「生神金光大神」をはじめ、神号授与の明治3年まで。

☆第5期は「信心深化のあゆみ」として、明治4年の神命による六角畳の撤去から、金光大神が既に書き始めていた「お知らせ事覚長帳」、神から出生以降のことを「金光大神年譜帳」、明治7年「金光大神御覚書」を書き留めるよう命じられ、日夜の広前奉仕をはじめ「生まれ変わり」や「天地斯書附」の確定など明治10年まで。

☆第6期「助かりの道の行く先」は、明治11年から四男萩雄の加茂神社祠掌就任、村民を中心とした宮建築関わって、神からしばしば意にそぐわない点を指摘され、神の意志と食い違う状況が生じるもどかしさ、その後、「広前のことはせがれにさせよ」、「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする。金光大神ひれいのため」とのお知らせに至る過程で明治16年の金光大神帰幽まで。更には、このたび新しく存在が明らかになったものとして、金光大神の直筆の原本を拝見するなど教祖様が身近に感じられる展示でした。

続いて、苦楽庵(近藤藤守別邸)に移動して、滝口道江先生より庭園及び建築など神殿に纏わり説明を受けました。苦楽庵は藤守先生のご霊地における住居を「苦楽庵」と名付けられ、ご晩年の起居はもとよりご帰幽に至るまでお過ごしになったお宅です。

苦楽庵は、本部広前正門の石段を下りた正面に位置し、本部広前正門に対して苦楽庵表門があります。その表門をくぐり左側に正八角形の建物が八角堂で、室内に井戸が掘られています。この建物は、屋根は銅葺きで周囲の壁面は杉皮葺きになっており、二代教会長近藤明道先生の時に建てられたとのこと。

次に、表門と前庭を隔てて苦楽庵の玄関があり、その格子戸の右に「難波教会初代教会長近藤藤守師記念館」の表札、左の壁面は舟板で格子戸をあけると正面の鴨居には扁額が掛っており、題字は藤守先生の筆でしたが、現在は桃山会初代教会長井上定次郎氏の筆であるとの説明を受けました。その後、一行は移動して井戸と手洗鉢、複神門と庭園の亭を見ながら渓や橋の説明を受けました。

最後に八ツ棟の神殿及び屋根、階上の縁、階段、階下の柱や渡り橋の説明を受けました。その八ツ棟の神殿の二階には、教祖様の神殿として御神座が設けられているとのことで、教祖様を偲び慕われた近藤藤守先生の心情を伺い知ることができました。(参考資料『教祖(みおや)ともに』昭和62年1月28日難波教会発行)

このたびのツアーにおいて、境内地・図書館展示・苦楽庵(近藤藤守別邸)の説明を受けて、私たちが知る事もなかった事柄にも触れる有難いツアーでした。(安達幸則記)

第2コース「金光英子先生と歩く境内聖跡」

この第2コースの参加者は18名。来年伐採されることとなった祭場南側にあるメタセコイアの巨木を心に刻みつつ、境内諸施設の変遷を振り返る2時間コース。昨日のご霊地集会に続いて、金光英子先生が案内くださった。

まずはメタセコイアへ…と思いきや、祭場前にそびえる大王松(だいおうしょう)から解説が始まった。大きな松ぼっくりがちらほら見えるその松は、明治期にここにあった金光中学の植物園に植えられていたもので、金光中学が移転した後もこの場所に植えられている。植えられた時期は、日本にこの松の輸入が公式に始まった時より随分前にだったとのこと。

そして、10月とは思えない日差しを避けて祭場内を通りながら南側へ行く途中にも、祭場について解説され、建設当時、1万人以上の収容人数で中に柱のない建物は世界初。

祭場の建設敷地を確保するために裏山を削る作業に、まだ子供だった英子先生のお兄さんがスコップをもってその作業を手伝ったことなど、多くの人の手と祈りで建設が成就したことが窺われた。

そして、この施設が出来たおかげで水道などインフラが整備され、生活が古代から現代へ激変したこと等、実際の体験談を交えて興味深く話された




その後も、金光様のお宅がこの場所になった所以や町内の洋風建築のことなど、その話題は多岐に亘り、この先のツアーへの期待が膨らんでいく。

ようやく祭場南側のメタセコイアに辿り着き、その歴史的、植物学的価値と金光教との関りを詳しく教えてくださった。台風などで倒壊の危険性があることから切られるそうだが、祭場と同じくらいの高さがあるという巨木を見上げながら、できることなら残してあげたいという思いが皆に共有された。

幸い本部教庁南側の木は保存されるとのことで参加者一同安堵するとともに、境内や町内に残る文化財のことを知らないことを気付かされた。

そこから会堂方面に戻って、教徒社として使われている洋風建築を眺めつつ、手水舎、松など、大教会所炎上の痕跡をたどって、時折、当時の絵を見せながら臨場感たっぷりに話が進められた。

次に、今は休憩所として使われている旧本部教庁の建物で休憩。休憩と言っても話は止まることはなく、修徳殿裏の井戸や立教聖場の解説をされた。


最後に金之神社跡地から教祖奥城へ移動。エレベーターから金之神社に至る道沿いにはいくつかの石柱が建っている。

これは、前日のお話でも出た、かつて近藤藤守先生が参拝者を連れて沙美から参拝された折のエピソードで、あちこちで「金光様へはどう行く?」と尋ねながら参拝されたことから、住民が一町(100m)毎に道標として置いたものを移設したものだそうです。

そして教祖奥城では、裏側に並ぶ小さなお社から、奥城に向かって後ろ側の壁についている窓の意味まで、その引き出しの数の多さに驚くとともに、目についたもの目についたもの全部話したい…という、金光英子先生のご霊地に対する熱い気持ちがこちらに伝わってくるツアーでした。(村田光治記)




第3コース「木綿崎山の奥で出会う教祖様」

第3コースは霊地の輔教・中務貴美子さん、中務志寸子さんのご案内で絵師迫墓地、小野家墓地、金光教学院、金光教教学研究所を見学しました。

絵師迫墓地は、歴代教主奥城の手前を左に曲がり、切り通しを渡ったところにあります。絵師迫墓地の手前には、教祖様に手習いの指導をされた小野光衛門様の一族のお墓がありました。

この手習いを通して教祖様は読み書きと共に人としての生き方を学ばれました。絵師迫墓地には、信奉者や教会の奥城もあり、その一番奥に二代金光様の夫人金光喜代様(真心高清姫)の奥城があります。二代金光様は教祖様の隣に埋葬されていますが、墓地が手狭なために高清姫はここに埋葬されたとのことでした。

歴代教主奥城と教団の功労者佐藤範雄先生頌徳碑の前を通って金光教学院へ。金光教学院は金光教の教師になるために修行する全寮制の教育機関です。近代的な寮(右手に女子寮、左手に男子寮)の間の路の先に学院広前があります。

参加者は学院のお広前に参拝し、学院次長の秦浩治先生のお話を伺いました。歴代の学院生が大切に守ってきたお広前に座り、教師育成の歴史に思いを馳せました。





学院から急な坂道を上ると教学研究所です。玄関のある建物はレトロな洋館で、奥には立派な和風建築の建物があります。

研究所の建物は昭和初期に有名建築家が手掛けたもので、天皇が休息できるように建てられました。学院広前も研究所の建物もまさに金光教の有形文化財です。






会議室には、教祖様や二代金光様が書かれた資料のコピーが並べられており、所長の大林浩治先生と部長の白石淳平先生から、それらの資料についてお話を聞きました。

金光教教典刊行以後に発見された教祖様直筆の資料などにより、教祖様がどのように生きられ、どのように人々に向き合われて御用されたかが、より詳しくわかってきたそうです。

このコースでは、普段の参拝ルートから少し足を延ばしたところで、普段見られないものを見、普段聞くことができない話を聞くことができました。夏ような暑さでしたが、充実した時間を過ごすことができました。

このコースの参加者は17名でした。

ご案内くださったお二人の輔教の方は、うちわやお菓子、飲み物、蚊の多い絵師迫墓地ではキンチョールを用意してくださるなど、心温まる行き届いたおもてなしをしてくださいました。感謝でいっぱいです。(山田信二記)